〈孫権的名言 正史関連〉

正史(註釈含む)に出てくる孫権の言葉から、独断で名言(迷言)を選び紹介しています


・「魏帝が求めているものは、われわれには瓦石(がらくた)にすぎぬ」

「足下が死なれない限り、私は安心することができません」

「諸葛瑾への信頼」(正史 諸葛瑾伝より)

・「張公と話すときには、いいかげんなことはよういわない」

・「この酒のように、すっぱりとすべて引きうけてもらおう」(正史 甘寧伝より)

・「こうした物はみな朕(わたし)には必要のないものだ」

・「私は、周公瑾がおらねば、帝位にはつけなかったのだ」

・「もし張公の計に従っていたなら、今頃は人から食物をめぐんでもらっていたであろう」

・「もし私の言葉が外れたら、牛千頭を屠って、あなたに御馳走をして進ぜよう」

・「それが、何の障害になったであろう」

・「死んだ者は帰ってはこない」

『孫皎への手紙』(正史 『孫静伝』より)

・「ときたま、ちょっと出かけるだけだ」

・「よく知っていてくれる」


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・「魏帝が求めているものは、われわれには瓦石(がらくた)にすぎぬ」(正史より)

  …関羽を討たれた報復に、呉に攻め入ろうとする劉備。その蜀軍に対抗するため、
   221年に孫権は魏帝の曹丕に臣従の形をとり魏と同盟を結び、曹丕に呉王にとりたてられました。

    この年に曹丕から、雀頭香(じゃくとうこう、香の一種)・大貝(たいばい、紫の文様のある白い貝)
   ・明珠(大きな真珠)・象牙・犀の角・[王毒]瑁(たいまい)・孔雀・翡翠(青い鳥)
   ・闘鴨(とうおう、けんかをさせるための鴨)・長鳴鶏(ながなきどり)を献上するようにと求めてきましたが
    呉の群臣たちは「魏が要求してきた珍貴な愛玩物は礼の定めにはずれるもので、贈るべきではない」
    と孫権に上奏しました。

    しかし、孫権は「どうでもよい物で大切なものの代わりをさせるのに何の不可も無い」という事を表わす
    故事ひいて、

    「今、わが国は、蜀、魏と事を構えており、江南の民衆たちは主君を命とたのんでいる。
     彼らこそ俺の愛し子ではないか。魏帝が求めているものは、われわれには瓦石(がらくた)にすぎぬ。
     俺が何でそんなものを惜しんだりしよう。」

    と、要求されたものはすべて取り揃えて魏に贈ったそうです。

    大切な国と民のためならば、高価な宝物などはガラクタ同然、惜しくはない…と言いたいんですよね。
    この台詞は、孫権の度量の広さというか、気前の良さというかやさしさというか、そんなものが感じられて
    私は大好きです。


「足下が死なれない限り、私は安心することができません」(正史  呉主伝 第二)

   …建安十八年(213)正月、曹操は呉の濡須を攻め、孫権はこれを防ぎ戦い、相い対峙することが
     一ヶ月にもなりました。膠着状態が続く中、孫権は曹操に書簡を送り勧告しました。

     「春の出水がもうすぐやって来ます。すみやかに去られるがよろしいでしょう」と。

     また、別の手紙で

     「足下が死なれない限り、私は安心することができません」とも言ったそうです。

     曹操は、「孫権は私にうそはつかぬ。」そう言って、軍を引き上げ帰還しました。

   この台詞…文句無しにかっこいいです♪よくも言ったり!って感じです。かなり強気ですよねv
   曹操があっさり撤退したのは、この戦いは曹操が自らの威力誇示のためのデモンストレーションだった
   のかも、という説もありますが、もしそうだとしたら、孫権はそれを見越して勧告したのかも知れません。
   ただのデモンストレーションなら益にならないから止めろ、と
   (↑これは私情が入りすぎた偏った見方かもしれませんが)。


「張公と話すときには、いいかげんなことはよういわない」(正史 張昭伝)

   …張公というのは張昭さんのことです。孫権さんは常々こう言っていたそうですが、張昭さんの前では
    緊張してめったなことは言えなかったのですね。
    虎狩り好きを注意されたり、無茶な宴会を開いてキツイ諫言をされたり、ストライキして家に
    引き篭られたりしたのですから、無理はないですが…。


・「こうした物はみな朕(わたし)には必要のないものだ」(正史 呉主伝第二より)

  …嘉禾四年(235)、魏から使者があり、馬と真珠・翡翠・[王毒]瑁(たいまい)とを交換したいと
    申し入れてきました。孫権は

   「こうした物はみな朕(わたし)には必要のないものだ。しかるにそれによって馬が手に入る。
    なんでわざわざこうした交易を拒否する必要があろう」
と、魏と交易したということです。

   この言葉は、魏の曹丕に献上品を要求された時に言った言葉と似ていると思いました。
   このような高価な宝物を大事にするのではなく、現実的な判断をする。
   そんな孫権の性格が現れていると思います。


・「私は、周公瑾がおらねば、帝位にはつけなかったのだ」(正史 周瑜伝より) 

  …孫権が帝号を称するようになったとき、公卿たちに言った言葉です。兄・孫策の義兄弟であり、
    孫権さんが呉を継いだ時からずっと補佐をしてくれた周瑜さん。赤壁の戦いでも、大半の家臣が降伏を
    唱える中で、曹操軍の実情と弱点を見通して開戦を主張し、開戦・勝利に導いた周瑜さん。

    周瑜さんは建安十五年(210年)に惜しくも若くして亡くなられてしまいましたが、それから19年ほど経った
    呉の黄龍元年(229)に帝位についた時も、孫権さんは周瑜さんの輔佐・働きを忘れなかったのですね。
    孫権さんにとって周瑜さんは、本当に大きい存在であったことが伺えます。


・「もし張公の計に従っていたなら、今頃は人から食物をめぐんでもらっていたであろう」(『江表伝』より)

  …正史 張昭伝の注釈に引用されている『江表伝』に出てくる、孫権の言葉です。

   孫権さんは帝位についたあと、百官たちを呼び集めた席で、自分が帝位につけたのは周瑜のおかげなのだ
   と言われました。張昭さんは、手に持った笏(こつ)を挙げて自分もその手柄を称賛する意見を述べようと
   しましたが、口を開く前に、孫権さんはこう言ったそうです。

    「もし張公の計に従っていたなら、今頃は人から食物をめぐんでもらっていたであろう」

   これを聞いた張昭さんは大いに恥じ入り、床に突っ伏して冷や汗を流したそうです。

  う〜ん、かなりキツイ言葉です。「張公の計」というのは、赤壁の戦いを前にした時期に張昭さんが、
  曹操さんへの降伏を主張したことを指しているようですが、孫権さんは、張昭さんが魏への臣従を唱えた
  ことを、随分と根に持っていたみたいですね…。それにしても百官の面前で、張昭さんに恥をかかせるような
  ことを言うなんて、あまりに酷すぎるんじゃありませんか?孫権さんにとっては、冗談めかした戯言として
  言っただけで、本気で悪意があって言ったのではなかったのかもしれませんけど、言われた方は、たまった
  もんじゃないと思います。冗談だったとしても、かなりの毒舌には違いありませんよね。
  周瑜さんへの称賛とは、全く正反対なお言葉です。


・「もし私の言葉が外れたら、牛千頭を屠って、あなたに御馳走をして進ぜよう」(『呉録』より)

  …正史・歩隲伝の注釈に引用されている『呉録』に出てくる、孫権の言葉です。

   ある時、歩隲さんは孫権さんに上表して

   「(北方からの投降者の王潜らの申すところによると)北方では隊伍を整え、東方への進出を意図し
   布の袋を大量に作って、それに砂を入れて大江をせきとめ、大挙して荊州に向かおうとしておるとの
   ことでございます。前もって備えを設けておかねば、急な事態に対応することができません。
   どうか防備をおそなえください」
と言いました。

   すると孫権さんは、こう言われました。

   「あいつらは落ち目であって、なんで大事を企てたりできよう。決して、やって来たりはせぬ。
    もし私の言葉が外れたら、牛千頭を屠って、あなたに御馳走をして進ぜよう」
と。
  

   のちに呂範さんと諸葛恪さんがいたときに、孫権さんはこの二人に歩隲さんの上言のことを聞かせて
   
「歩隲の上表を読むたびに、いつも失笑を禁じえない。この大江は天地開闢の時から流れ続けている
    もので、砂の袋などで塞いでしまうことなど、できようはずもないではないか」
と語ったそうです。

   牛千頭…孫権さんは、よほど「江をせきとめるなんて、できっこないよ」という自信があったのですね。
   これって子供とかが「もしそんなことができたら、逆立ちで町内一周してやるぜ!」とか言うのと
   同じようなノリでしょうか(←いや、全然違うのでは…)。孫権さんの遊び心というか冗談めかして
   いるというか、そんな様子に人間味が感じられて、何だか良いなあと思いました。

   ところで、この後どうなったかは書かれていなかったのですが、やはり歩隲さんの心配は
   杞憂に終ったのでしょうか?「砂の袋なんかで、長江はせきとめられない」との孫権さんのお言葉は
   確かに最もですから、おそらく「長江を砂袋でせきとめよう作戦」は成功することなく、歩隲さんも
   牛千頭を御馳走してはもらえなかったのでしょうね。
   まあ本当に牛千頭を御馳走されても、それはそれで困ると思いますけれど…。


・「それが、何の障害になったであろう」(『江表伝』より)

 …正史・呉主伝第二(孫権伝)の注釈に引用されている『江表伝』に見える言葉です。

   二二一年、魏帝・曹丕は魏に臣従してきた孫権を呉王に封じ、九錫(天子が諸侯の大功ある者に賜う
   九種類の礼物)を加えました。孫権の臣下達は、孫権が自ら上将軍・九州伯を名乗り、魏の封命は
   受けないほうが良いという意見を陳べたのですが、孫権は

   『九州伯の称号は、古(いにしえ)にあったとは聞かない。〔それに〕昔、沛公(漢の高祖・劉邦)も、項羽から
   授けられた漢王の任を受けたが、それは時宜に従ってそうしたまでで、それが〔漢の天下統一に対し〕
   何の障害になったであろう』

   そう言って、魏の封命を受けたそうです。

   当時、呉が関羽を討ったことで劉備の怒りをかい、呉と蜀の敵対は避けられないものになっていました。
   それに加えて呉は、度々呉国内で反乱を起こす不服従民・山越にも対処しなければならないという、深刻な
   内政事情を抱えていました。蜀と山越を敵に回し、その上、魏まで敵にまわせば呉はひとたまりも
   ないと見た孫権は、魏に臣従することで国を守るという方針を立てており、その方針に従って、呉王の
   地位をも受け入れたようです。

   上記の言葉からは、自分の対面などにこだわらず、現実的な判断をする孫権の態度が読み取れるように
   思えます。漢王の位を受けたことが、高祖・劉邦の天下統一には何の障害にもならなかったように、
   自分が呉王の位を受けたとしても、何の差支えも無い…ということを言いたかったのでしょうか。
   臣従したとはいえ、決して心から服従していないばかりか、随分と強気であることが覗えます。

   国を守るため、魏に臣従することも厭わない…しかし、決してへりくだる事無く、逆に魏をうまく利用しようと
   するような、孫権さんのしたたかさが感じられます。このような所も、孫権の魅力のように思われますが、
   いかがでしょうか?


・「死んだ者は帰ってはこない」(正史 凌統伝より) 

 …建安ニ十年(215) 八月、孫権は十万の兵で魏の合肥を攻め、これを包囲したものの降らせることが
   できませんでした。そこで孫権は軍の撤退を命じたのですが、先発の部隊がすでに出発した後に、張遼が
   率いる魏軍に急襲され、孫権は人を遣って、先発した兵士達を戻らせようとしました。しかし兵士達はすでに
   遠くまで進んでしまっていて、戻るのに間に合いそうもなく、孫権は大ピンチに陥ってしまいます。

   凌統は近習の者たち三百人を指揮して、魏軍の包囲をくずし、孫権を守りつつ脱出させると、再び戻って
   魏軍との戦いに加わりました。側近の者は皆死に、凌統自信も負傷しつつ、数十人の敵を殺したそうです。

   孫権が難を逃れて安全な場所に着いた頃を見計らってから、凌統は退却したのですが、橋が壊れて
   退路が無かったので、鎧をつけたまま水中を潜って川を渡ったそうです。注釈によると、

  『凌統は傷がひどく、孫権はそのまま凌統を御座船の中に留めて、その衣服をすべて更えさせた。
   彼の傷は、卓氏の良薬の効き目で(快方に向かい)、死なずにすんだ』
ということですから、傷は随分と
   重かったことが覗えます。それほどの重症にも関わらず、鎧を身に着けたまま、川を泳いで渡ったとは…
   凌統さんの体力と気迫の凄まじさが伝わってくるようです。

   すでに船に乗っていた孫権さんは、凌統さんが帰って来たのを見ると驚喜されましたが、凌統さんは
   近習の者達が誰も戻って来ないのを痛み、悲しみに沈んでおられました。孫権さんは、自らの袂(そで)で
   凌統さんの涙を拭いてあげると、

   『公績どの、死んだ者は帰ってはこない。あなたさえ健在ならば、ほかに有能な人物がいないなどと、
   どうして心配したりしよう』

   と言われたそうです。  

   死んだ者は帰って来ない…自らも死と隣り合わせな戦場に、ついさっきまで身を置いていた孫権さんが
   言ったこの言葉は、とても重い言葉だと思います。
   孫権さんは父・孫堅さん、兄・孫策さんを始め、若い頃に両親や兄弟を次々と亡くされましたし、一国の君主
   として戦っていくうちに、家臣を始めとした多くの方々が亡くなっていくのを目の当たりにしていたでしょう
   から、亡くなった者が帰って来ないという現実を、痛いほど感じられていたのではないでしょうか。…というのが
   私の、妄想の入り混じった私見です^^;ですが、この合肥の戦いでも多くの人命が失われたのを
   目の当たりにされていたでしょうし、だからこそ後半部分の『あなたさえ健在ならば…』の言葉には
   凌統さんの生還を心から喜んでいる、孫権さんの心情が垣間見えるように思えます。


・「ときたま、ちょっと出かけるだけだ」(『江表伝』より)

 …正史・潘濬伝の注釈に引用されている、『江表伝』に見える言葉です。

   記述によると、孫権さんはしばしば雉(きじ)狩りに出かけたそうですが、そのことを潘濬さんに諌められた時
   こう答えられたそうです。

  『あなたがおらなくなったあと、ときたまちょっと出かけるだけで、昔のように機会のあるごとに行なって
   おるのではない』

  何とも言い訳じみたお言葉ですね。昔のように頻繁に狩りをするならともかく、今は時々ちょっと出ているだけ
  なんだから、大した問題もないだろ?少しぐらい多めに見ろ…何ておっしゃりたいのでしょうか^^;
  大人げ無くも見えますが、親しみも感じてしまいますv好きな事にはついつい夢中になるものですし、
  咎められたら「ちょっとくらい、良いじゃん」って言いたくなったりもしますものね。

  けれど潘濬さんが狩りを諌めるのには、しっかりとした理由があったのです。
  潘濬さんは「天下はまだ平定されず、ご主君としてのおつとめも煩多でございます。雉狩りは不急のことで
  ございますし、もし弓の弦が切れても矢括(やはず)がこわれても、お身体を損ずることとなります」
と、
  自分にめんじて狩りをやめて貰えるよう、孫権さんに重ねて諫言されたのです。
  他に優先すべき務めが多々ある上、下手をすれば怪我をするなど孫権さんの身に危険が生じる恐れが
  あるから、狩りは駄目…ということだったのですね。
  潘濬さんが退出した後、孫権さんは、雉の羽で作った翳(かざし)が昔どおりに置かれているのを見て、
  自らそれを取り除き、壊して、そしてそれ以後は雉狩りに出るのをやめたそうです。
  潘濬さんの忠言が通じたのでしょうか。

  それにしても孫権さんは、本当に狩りがお好きだったんですね!虎狩りを好み、張昭さんに諌められても
  めげずに専用の車まで作って、狩りを続けたとのエピソードも残っていますし、上記の言葉からも、
  機会のあるごとに狩りを行なっていたこと、そしてそれを孫権さん自身、自覚していたことなども、
  うかがえます^^;機会のあるごとに…とは、本当に趣味として狩りが大好きだったようですね。
  潘濬さんは、もともと荊州に仕え、劉備さんが荊州を治めるようになると、そのもとで
  働いていたようですが、呉が関羽さんを討伐し、荊州を得た後は、孫権さんに仕えることになったようです。
  関羽討伐は219年(建安24年)で、この年、孫権さんは37〜38歳。雉狩りの諌めがあった時期は
  特定できませんが、この年かそれより後の事となりますから…わりと中年(失礼!)になってからも
  狩りは好まれていたのでしょうか。もっともその頃には「時たまちょっと出かけるだけ」で、若い頃よりも
  控えるようにはなっていたのでしょう。孫権さんの"言い訳"が本当の事であれば…ですけれど^^;


・「よく知っていてくれる」(『呉書』より)

 …正史・張紘伝の註釈に引用されている『呉書』に見える言葉です。

   張紘は、破虜将軍(孫堅)には董卓を敗走させて漢の王室を支えた勲功があり、討逆将軍(孫策)は
   江南の地を平定して大きな事業をうち立てたのであるから、その公のために尽した正義の行動を
   顕彰するための記録があるべきだと考えて、その文章を自ら完成させ、孫権に献上したそうですが、
   それに目を通した孫権は、心を深く動かされて、こう言われたそうです。

  『あなたは、本当にわが家の来歴や功績についてよく知っていてくれる』

  そこで孫権は張紘を会稽東部都尉として派遣したということです。
  顕彰…とあるので、孫堅と孫策の功績を讃える文章だったのでしょうが、それを読み、心を深く動かされた
  という孫権さんは、どのような心情で上記の言葉をおっしゃったのでしょうか。
  早くに亡くしてしまった父や兄の功を知ってくれていて、また評価してくれる人のいる事が嬉しかったの
  でしょうか。また、文章に書かれた内容がとても詳細だったので、よくここまで知っているなと、張紘さんに
  感心したのかもしれません。あるいは文章を読み、無き父・兄の在りし日の姿が思い出されて、懐かしかった
  り、寂しくも感じられたのかも知れません。
  様々な感情が入り混じっていそうな言葉に思えます。

 

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