『孫皎への手紙』(正史 『孫静伝』より)

・孫皎について

孫皎(字…叔朗)は、孫堅の弟・孫静の三男で、孫権にとっては、いとこにあたる人です。
はじめ護軍校尉に任ぜられて、二千余人の軍勢をあずかりましたが、この当時は曹操が度々
濡須へ軍を出してきており、孫皎はその度ごとに駆けつけて防ぎ止めたので、精鋭であるという
評判を得たそうです。都護征虜将軍に昇進し、程普に替って夏口軍の総指揮に当ったり、
黄蓋と兄の孫瑜が亡くなると、その配下の軍もあわせて孫皎が指揮をすることになったりと、なかなか
才能のある武人だったのではないかと思えます。

それに加え、財貨を惜しまず人々に施し与え、広く交友関係を結んだりする面もあり、諸葛瑾とは
特に厚い交友関係があったとのことです。

また、こんなエピソードも残っています。偵察の兵士が魏の辺境守備の部将や軍吏のもとにいた美女を
捕まえて来て、孫皎のもとに差し出しましたが、孫皎はその女性の衣服を新しいものに取り替えて
送り返してあげました。そして、「今伐とうとしているのは曹操軍であって、民衆達には何の罪も無いの
だから、これから後、老人や幼い者に危害を加えてはならない」
との命令を出したことから、
長江から淮水にかけての一帯では、孫皎のもとに身を寄せて来る者が多かった…ということです。
民への思い遣りも持ち合わせていたのですね。

・甘寧と大喧嘩

武人としての才がある上、財貨を惜しまず、民衆たちにも優しいことから、人格的にも立派だったことが
推測できる孫皎さんですが、ある時、小さなことから甘寧さんと大喧嘩をしてしまった模様です。
あの甘寧さんを相手に大喧嘩なんて、無謀…いえいえ、怖いもの知らずなお方です。

この喧嘩のことで、甘寧さんを諌めた人がいたみたいですが(この人も、勇気ありますねぇ)、それに対する
甘寧さんの言い分は 

『臣下も公子も同列であるはずだ。征虜将軍(孫皎)は公子であるとはいえ、どうして彼ばかりが他人を侮辱して
 良いものだろう。私は明主と出会うことが出来た以上、ひたすら力を尽くし生命をも投げ出して、
 天ともたのむ主君にご恩報じをすべきであって、世間のならわしに従って身を屈することなど絶対に出来ない』

とのこと。この言い分を読んだ限りでは、どうやら「孫皎さんが甘寧さんを侮辱した」ことが喧嘩の原因みたい
ですね。甘寧さんが原因ではなかったのは、少々、意外です(爆)

甘寧さんの言い分から推測すると、おそらく甘寧さんを諌めた人は
「孫皎さんは主君(孫権さん)の身内なのだから、例え孫皎さんに非があったとしても、甘寧さんは我慢する
べきではないのか?」みたいなことを言ったのではないかと、思われますが、それに対して甘寧さんは
「家臣も主君の身内も、立場や身分に差はないはずで、主君の身内であるからといって、他人を侮辱する
 ことが許されるはずがない」と主張されています。

甘寧さんが、孫権さんについて言及している点にも、孫権ファンとしては注目したいところです(笑)
甘寧さんは、時には孫権さんの命令にも従わないことがあって、それに腹を立てる孫権さんを、いつも呂蒙さん
がとり成していた…なんて話も残っていますが、上記の
『明主と出会うことが出来た以上』『天ともたのむ主君』
という言葉を読むかぎりでは、何だかんだと問題を起していても、甘寧さんは結局、孫権さんを主君として認め、
忠義を尽くしていたのではないかと感じました。
希望的観測かもしれませんが、『ひたすら力を尽くし生命をも投げ出して、天ともたのむ主君にご恩報じを』する
なんて言葉、忠義心が無ければ、なかなか言えない言葉だと思うのですが。
なかなか、素敵な言葉です♪

…失礼致しました(汗)趣味に走るのはここまでにして、話を本題に戻します。甘寧さんの言い分を読んだ
限りでは、甘寧さんの主張は正当なもののように思われます。やはり非は孫皎さんにあるのではないでしょうか?

・孫皎を責める手紙

どうやら、やはり非は孫皎さんにあったらしく、喧嘩のことを聞いた孫権さんも、孫皎さんを責める手紙を
送っていらっしゃいます。
 注)各文につけた私の解釈は、かなり適当です^^;

まず
『私が北方と敵対するようになってから、もう十年になる。最初は年端も行かぬということでお前の援助も
 したが、今はお前ももう三十にもなるのだ。孔子は『三十にして立つ』といったが、これは単に学問の道
 だけについていっているのではない』

と、注意しています。
最初は年端も行かぬということで…ということは、孫皎さんは孫権さんよりも年が若かったのでしょうか。
論語を引用して、もう三十歳にもなる良い大人なのだから、もっとしっかりしなければいけない、と注意を
促されています。

余談ですが私は最初、『北方と敵対する』を『きたかたと敵対する』と読んでしまいました(汗)
「北方」といえば北方三国志という図式が、私の頭の中では出来あがっているらしく…。
「何故、北方三国志と敵対を?あっ、北方三国志では孫権さんの扱いが良くなかったから!」という妄想まで
浮かんでしまいました^^;

次に
 『お前に精鋭の兵を授け、お前に大任をゆだねて、千里も遠隔の地において部将たちの総指揮にあたらせた
  のは、楚が昭奚恤(しょうけいじゅつ)を任用することによって北方の土地に威勢を示したように、お前も信任
  に対(こた)えて武威を輝かせてほしいと願ってのことであって、なにもお前に勝手きままなふるまいを
  させようなどとしてのことではない』

と、故事を引用して、孫皎さんにどのような働きを期待しているのか述べていらっしゃいます。
私がテキストを書く上でもとにしているのは、ちくま文庫の『正史 三国志』なのですが、昭奚恤について
ちくまの正史には『昭奚恤が楚王の力をバックにして北方の諸国を畏れさせたことは、『戦国策』楚策第一に
虎の威をかる狐の話として見える』との注がつけてありましたので、少しだけ調べてみました。→こちら

『勝手きままなふるまいをさせようとしてのことではない』と言っていますから、やはり孫権さんも
孫皎さんと甘寧さんの喧嘩の原因は、孫皎さんの行動に問題があったと、見ているようですね。

 『近ごろ聞けば、お前は甘興覇(甘寧)どのと一緒に酒を飲み、酔って自制心を失い、かの人を侮辱したため
  かの人は〔お前のもとを離れ]呂蒙の指揮下に入りたいと願い出ておるとのことだ』

ここで喧嘩の原因が、はっきり書かれています。孫皎さんが酔っ払って、甘寧さんを侮辱したことが喧嘩のもと
だったのですね。酒乱が原因だったとは、さすが、孫権さんの身内!
孫権さんも、人のことを言えるのでしょうか?
酔った上での失態なら、孫権さんのほうが余程ひどかったりするのですが…。

甘寧さんは孫皎さんの指揮下に入っていたということで、二人が一緒にお酒を飲んだのも、その縁でなのかも
しれません。甘寧さんは孫皎さんの下を離れ、呂蒙さんの指揮下に入りたがったようですが、
はっきりと呂蒙さんを名指したということは、甘寧さんと呂蒙さんは仲が良かったのかもしれませんね。

 『かの人は、繊細さを欠いて向かい気が強く、人の気持をそこねることもありはするが、大きく見れば立派な
  人物であるのだ。私が彼に肩入れするのは、個人的な感情からではない。私が親しくする者を、お前は
  うとんじ憎むが、お前のやることがいつも私の考えと逆らうといったとこで、長くそのままでいられると
  思うのか』

この部分では、孫権さんが甘寧さんの人物をどう評価していたのかが覗えます。
「繊細さを欠いて」との評は、ちょっと手厳しいように思えますが、「大きく見れば立派な人物である」と
甘寧さんのことを誉めています。「大きく見れば」とわざわざ言ってるところが、気にならないでもないですが^^;
きっと孫権さんは甘寧さんを、大きな目で見てあげていたのでしょうね…。
孫権さんが甘寧さんに肩入れするのも、贔屓などではなく、甘寧さんにはそれだけの才と人格があるという
ことを言いたいようです。

孫権さんが親しくする人を、孫皎さんはうとんじ憎む…とありますが、孫皎さんはどうしてそんな態度を
とっていたのでしょう。孫権さんに信任されている人に、「俺だって、負けるもんか!」と対抗意識を燃やして
いたのでしょうか?勝手な想像ですが、もしそうだとしたら、何だか可愛いですv
けれど、いつまでもそんな態度でいたら、長くそのままでいられはしないぞと、孫権さんは厳しく叱って
いらっしゃいます。

 『つつしみ深さを守り杓子定規を排すれば、民衆の上に立つことができ、他人を思いやって包容力を
  持てば、人々の心を獲(え)ることができる。この二つの道も理解できずにいて、どうして遠方の地にあって
  人々を統率し、敵を防ぎ国難をのりきってゆくことなどできよう』

ここでは、民の上に立ち、心を得るには何が大切かということを述べています。
慎み深さを守り、杓子定規を排する・他人を思いやり、包容力を持つことが大切だと孫皎さんを諌めています。

 『お前もゆくゆくは年長者となり、特に重い任務を授けられることになろうが、上には遠方からじっと注がれる
  視線があり、下では部曲(配下の私兵)たちが朝夕お前の命令に従おうと待っているとき、どうして心の
  ままに怒りをたけらせたりしてよいものだろう』

上の人間からも下の人間からも視線が注がれる、公の立場にあるものは、言動に気をつけなければならないと
述べていらっしゃいます。ゆくゆくは、特に重い任務を授けられることになろう…という言葉に、孫皎さんに対しての
期待が表れているようにも思えます。

 『過ちのない者など、どこにもおらぬ。重要なのは過ちを改められることであって、さきの間違いを反省し、
  深くみずからを責めるべきである』

起こした間違いを改めるようにと、反省を促されています。頭から、間違いを起こすなと叱るのではなく、
間違いを起こすのは人として仕方がないことだと言っているところに、人間的な優しさが感じられました。

 『今わざわざ諸葛子瑜(諸葛瑾)どのを煩わせ、〔手紙のほかに口頭の言葉によって〕かさねて私の気持を
  伝えていただく。この手紙を書きつつ思いは沈み、心は悲しんで涙をこぼしておるのだ』

手紙だけではなく、諸葛瑾さんに孫権さんの気持ちを口頭で伝えてもらうようにしたみたいですね。
諸葛瑾さんが選ばれたのは、孫皎さんと諸葛瑾さんが親しく交友していたからかもしれませんし、
孫権さんが諸葛瑾さんのことを信頼していたからかもしれません。身内の争いを仲裁するために遣わされる
のですから、重要な役目だと思いますし。
しめくくりとして最後に書かれている言葉は、孫権さんの深い悲しみを表しているようでもあり、
俺はこれだけ悲しんでいるんだぞ!ということを強調することで、孫皎さんに反省の気持ちが生じるようにと
意図して書いたようにも思えます。


孫権さんの手紙を受け取った孫皎さんは『上疏して陳謝し、以後、甘寧とは厚い交わりを結んだ』
正史に記述されていますので、孫皎さんは反省し、無事に甘寧さんと仲直りできたようですね。
めでたし、めでたしです♪身内を贔屓するのではなく、たとえ身内であろうと、非のある方を諌める
孫権さんの態度も良かったと思います。

↑どうして長々と孫権さんの手紙を取り上げたかと言いますと…孫権さんの手紙の中に、色々なものの考え方が覗えますし、
  反省の促し方が上手だなぁということも印象的でしたし、何より、孫権さんの甘寧さん評が面白かったからでもあります(爆)
  甘寧さんの言葉の格好良さに、孫皎さんの酒での失敗なども、見所のように思え、取り上げてしまいました^^;

      

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