「子瑜どのがけっして私を裏切ることがないのは、私が子瑜どのをけっして裏切ることがないのと同様なのだ」

・正史「諸葛瑾伝」に見えるエピソード

221年(魏の黄初二年・蜀の章武元年)七月。その年の四月に帝位についた劉備が
東に軍を動かし、関羽の仇討ちのために呉の討伐に向かってくると、孫権はむしろ蜀との
講和を望み、その意を承けた諸葛瑾(字は子瑜。孔明の兄)が、劉備に講和を求める書状を
送った…ということがあったそうです。

この当時、諸葛瑾さんが
『蜀への公式の使者とは別に親しい者を遣わして、劉備と気脈を通じている』のではないか
などと
言う人もいたそうですが、それに対して孫権さんは

「私は、子瑜どのと死生を越えて心をかえぬという誓いを結んでおる。子瑜どのがけっして私を
 裏切ることがないのは、私が子瑜どのをけっして裏切ることがないのと同様なのだ」

    原文:「孤与子瑜有死生不易之誓、子瑜之不負孤、猶孤之不負子瑜也」

       →孤(われ)と子瑜とは、死生易(かわ)らざるの誓いあり、子瑜の孤に負(そむ)かざるは、
         孤の子瑜に負かざるがごときなり。(『中国古典百言百話3 三国志』から引用)

と、はっきりとその疑いを否定したとのことです。

諸葛瑾さんの弟・諸葛亮さん…ご存知、『三国志』中で一、二を争う有名人でいらっしゃる
孔明さんは、劉備さんが帝位についた時に蜀の丞相に任じられていました。

しかも諸葛瑾さんが、主君の意をうけての行動とはいえ、蜀へ書状を送ったとなれば、
弟のために蜀に協力しようとしてるんじゃないか?とか、兄弟の縁を頼りに、自分だけは
助けてもらおうとしてるんじゃないか?
とか、周囲からそんな目で見られていたのでは
ないかと…まあ、これらは私の勝手な想像なのですけれど^^;

ですが、例えば劉備さんが益州を手に入れた時『土地を得たんだから、荊州を呉に返せ!』と
求める使者として、蜀に遣わされたのは諸葛瑾さんでしたし、また、曹操さんが漢中に
侵攻したので『蜀と呉で荊州を2つに分けよう』との条件で劉備さんから和解を求められた時、
OKの返事をするため蜀に遣わされたのも諸葛瑾さんだったそうなので、それまでにも何度か
諸葛瑾さんが使者として蜀へ赴いたことはあったみたいです。
それに加えて弟が蜀の丞相であるとのこと、諸葛瑾さんは蜀との繋がりを疑われやすい立場に
あったのではないでしょうか。
 
そして「あいつ、使者とは別にこっそり人を送って、劉備と仲良くしてますぜ〜」などという
諸葛瑾さんへの疑いが、孫権さんの耳に入ることになってしまったのですが、孫権さんは
その悪口を、きっぱりはっきり否定していらっしゃいます!


まず孫権さんは「俺と子瑜とは、死生を越えて心を変えないという、誓いを結んでいる」のだと
諸葛瑾さんとの君臣関係の強固さを明言し、次に「子瑜が俺を裏切らないのは、俺が子瑜を決して
裏切らないのと同じことなんだ」
と断言して、諸葛瑾さんに信を置いていることを表明しています。
「子瑜は私を裏切らない」と言うのみならず「私は子瑜を裏切らない」とも断言されているところに
孫権さんの諸葛瑾さんに対する並々ならぬ信頼と、決して諸葛瑾さんを疑ったりはしないぞという
明確な姿勢も感じられるように思います。

孫権さんの言動には諸葛瑾さんへの疑いが、みじんも感じられません。
即座に、讒言を一蹴されています。
その姿勢にその信頼!いやぁ…御立派です、孫権様v

また、そこまで信頼を得られた諸葛瑾さんの人格や行動も、それだけ素晴らしいものだった
のだと思います。
諸葛瑾さんは、弟の諸葛亮さんと公式の席で顔を合わすことはあっても、私的に面会する
ことはなかったという記述が諸葛瑾伝に見えますから、李下に冠をたださずとばかり、
最初から疑われるような行動はしないようにしていたのでしょう。
その誠実さが孫権さんに信頼された所以の一つなのかもしれません。
いやぁ…諸葛瑾さんも、御立派です♪

・『江表伝』に見えるエピソード

さてさて、正史・諸葛瑾伝の本文中に見える記述はここまでなのですが、伝の注釈に引用されて
いる『江表伝』文中には、上記のような「諸葛瑾さんへの讒言と、それに対する孫権さんの対応」
のエピソードが、より具体的に記述されています。こちらのエピソードにも孫権さんの名言が
満載ですので、以下そちらについても紹介させて頂きます。
※例によって、私の付ける解釈はかなり適当です^^;

では、まず冒頭部分から…
『諸葛瑾が南郡にあったとき、ひそかに諸葛瑾のことを讒言するものがあった』と述べられています。

正史によると諸葛瑾さんは、関羽さんの討伐に参加して『宣城侯に封ぜられ、綏南(すいなん)将軍と
して、呂蒙に代わって南郡太守をつとめ、公安に家を置いた』
とのことですので、南郡にあった
というのはその事を指しているのではと思われます。(讒言の起こった時期は詳しくは分からない
ですが、上記した正史に見える讒言事件が起きた時期と同じくらいの頃のことと考えて
良いのでしょうか?)

そしてその讒言がいささか外に漏れ聞こえたため、陸遜さんが孫権さんに上表して、諸葛瑾さんに
そういった事実はないと保証するとともに、
孫権さんからも諸葛瑾さんに安心するようにとの
言葉をかけて欲しい
と、申し出たそうです。

ああ、何てお優しい陸遜さん!諸葛瑾さんが疑われては大変だと、孫権さんに対して
諸葛瑾さんの潔白を自ら保証なさっています。陸遜さんも、諸葛瑾さんのことを
信じていらしたのですね♪さらに、諸葛瑾さんが不安を感じているのでは…と心配して
孫権さんに「安心するように言ってあげて欲しい」とも願い出られています。
諸葛瑾さんへの思いやりに、優しさも感じられますねvv

もしこの出来事が、劉備さんが呉へ向かって軍を進めている時期のことでしたら、
陸遜さんの上表は、敵を目前にして、呉の内部に万に一つの乱れもないようにしておかなければ
との配慮からの行動だったのかもしれません。

陸遜さんは黄武元年(222)に、劉備さんが大軍を率いて呉西方の国境地帯へ押し寄せて来ると、
大都督に任じられ、劉備さんの進出を食い止める役目を任されましたから。
大都督として呉全体を一つに纏め、内部に憂いがないように…との心配りもなさっていたのでは
ないでしょうか。その関係からの上表だったのかもしれません。

さらに、もしかして陸遜さんは、孫権さんが本気で諸葛瑾さんを疑うとは思っていなかった
のかもしれません。孫権さんと諸葛瑾さんの信頼関係は上記のエピソードから読み取れるように
とても強いもののようですから、その信頼関係は自然と陸遜さん他、呉陣営の方々も見聞きして
知っていたのではないでしょうか?

ですから陸遜さんも「殿がこんな讒言に耳を貸すとは思えないけれど、蜀軍との戦いを前に
ゴタゴタが起こっても困るから…万に一つの間違いも起きないように、しっかりフォロー
しておこうかな」
というお気持ちだったのかもしれません。
…まあ、私の勝手な推測ですけれどね^^;
何にしても、陸遜さんに心配してもらえる諸葛瑾さんが、何だかちょっぴり羨ましいですvv


…それはともかく、陸遜さんからの上表を受け取った孫権さんは、それに対して
以下のように答えられています。

まず冒頭で
『子瑜は、私のために長年にわたり仕えてくれて、二人の厚い関係は肉親に異ならず、
 深く互いを理解しあっている。彼は道にあらざれば行なわず、義にあらざれば言わないといった
 人物であるのだ』


と、諸葛瑾さんが長年仕えてくれていること・ご自分と諸葛瑾さんとの強い信頼関係・諸葛瑾さん
の人格の三つを根拠に、諸葛瑾さんが裏切るはずがないであろうことを、はっきり書いています。


諸葛瑾さんは、孫権さんが孫策さんの後を継いだばかりの頃に、推挙されて孫権さんに仕えて
いらっしゃいます。ですからこの頃には、すでに孫権さんに十数年〜二十年もの間、仕え続けて
いる計算になります。これだけ長い間、変わらず仕えてくれているのだから、今さら裏切るような
はずがない、と思われているのでしょうか。

『深く互いを理解しあっている』という言葉においては、孫権さんが諸葛瑾さんのことを
「理解している」と断言するとともに、諸葛瑾さんも自分のことを「理解してくれているだろう」と
信じている…そんな心情が含まれているように思えます。

さらに諸葛瑾さんの人格については、「道にあらざれば行なわず、義にあらざれば言わない」
という性格の諸葛瑾さんが、裏切るような非道な真似をするはずがない、という事を言いたい
がために言及したのかもしれません。


以上の三つの点から孫権さんは、
「だから諸葛瑾が裏切るはずはないし、そのことは私も良く知っている」ということを言いたかった
のではないかと思います。
少々、想像を…いえ妄想を膨らませてみますと、これは上表の送り主である陸遜さんに対しての
「お前が言うように、諸葛瑾が裏切るはずはないし、それは俺も良く知っているから、
 安心して良いぞ」
というメッセージだったのかもしれません。
まず最初に、陸遜さんの憂いをはっきり晴らしてあげようとの配慮だったのかもしれませんね。


次に孫権さんは

『玄徳(劉備)が昔、孔明(諸葛亮)を使者として呉に遣って来たとき、私は子瑜にこう語ったことがある

 『あなたは、孔明どのとは同じご両親から生まれられた兄弟であり、それに弟が兄に
  従うのは道理からいっても当然のことだ。なぜ孔明どのを呉に引き留めようとされぬのか。
  孔明どのがもし、あなたのもとに留まられるのであれば、私は手紙を書いて玄徳どのの了解
  を求めてやろう。思うに、玄徳どのも反対は出来ぬであろう』と。

 子瑜が私に答えて言った

『弟の諸葛亮は、ひとたびその身を人にあずけ、礼式にのっとって君臣の固めをいたしました
  以上、二心をいだく道理がございません。弟が呉に留まりませんのは、ちょうど私めが
  蜀に行ってしまわぬのと同様なのでございます』
と。

 この言葉は、天地神明をも貫き通すに足るものであった。今になってどうして讒言に言うような
 ことがあったりしようや』


と、具体的なエピソードを交えて、さらに、諸葛瑾さんは潔白であろうこと、そして自分がそれを
信じているということをおっしゃっています。

孔明さんが使者として呉に来た時…というのは、赤壁の戦いの時、孔明さんが同盟の使者として
呉に来たことを指しているのでしょうか。
その時に孫権さんが、孔明さんをこのまま呉に留めるように…つまりは呉に仕えさせるように
してはどうかと、諸葛瑾さんに諮ったという事があったのですね。
『弟が兄に従うのは、道理からいっても当然のことだ』とありますが、儒教道徳が根強く
人々の思考に反映している当時は、兄弟関係もそういうものだったのでしょうか。

しかし諸葛瑾さんは、孔明さんは決して二心を抱いたり、軽々しく主君を変える人物ではない
と断言し、孫権さんの謀をはっきりと否定されています。
弟である孔明さんの性質を、良く理解していらっしゃるとともに、孔明さんのそうした性質を、
兄として誇りに思っているという心情が、含まれているようにも読み取れます。
もしそうだとしたら…良いお兄さんですね♪

そしてそれに続く、諸葛瑾さんの名言!
『弟が呉に留まらないのは、私が蜀に行ってしまわないのと同じことなのです』
この、堂々たる発言!

孔明さんは決して劉備さんに叛かない…と、弟のその忠義心の強さを説明した後、
「自分の忠義も、それと同様のものです」と言ってのける大胆さ!
しかも孫権さんが「そのことばは天地神明をも貫き通すに足るものだった」と言われているのを
見ると、その言葉は決して口先だけのおべっかではなく、本心からの物だったのでしょう。
真実味と誠実さとが溢れた発言だったのでしょうv(ややドリーム含)

『弟が呉に留まらないのは…』という発言を受け、孫権さんもそれに納得しているみたいですから
諸葛瑾さんの忠義の強さは、すでに孫権さんも十分ご存知だったのでしょうか?
諸葛瑾さんは「孔明さんが劉備さんのもとを離れることはない」ということを
分かりやすく、納得させられるように「私が呉を離れないのと同じ事です」と身近な例えを
出した…とも考えられそうです。そして、その言を受けた孫権さんは「そうか、諸葛瑾が呉を
思うほどに、孔明が蜀のことを思っているのであれば、孔明を蜀から引き離すのは無理だな」

と納得したと考えられないでしょうか。もしそうだとしたら孫権さんと諸葛瑾さんの君臣関係は
「主君に忠義を尽くす家臣。そしてその忠義心をしっかり理解していて、家臣に信頼を置く主君」
という図式になりはしないでしょうか。


…話がそれまくっていますが、とにかく孫権さんは、過去のエピソードをあげることで
諸葛瑾さんの呉と自分への忠義心の強さをますますはっきりさせ、それなのに今になって
叛くようなことがあるはずがないと、きっぱり言いきっています。

『これまでにも、でたらめな内容の上疏文を受け取ると、すぐさま封をして子瑜に見せ、
 私自身の手紙をそえて子瑜に送ったが、おり返し返事があって、この世界において、
 主君と臣下の間に存する大節と、おのおのが守らねばならない定まった分とが論じて
 あった』


ここでは、孫権さんと諸葛瑾さんとの文通…いえいえ、実務上のやり取りについて
取り上げられていますね。このやり取りの中にも、孫権さんの諸葛瑾さんに対する信頼、
諸葛瑾さんの信頼されるに足る人格と才能というものが伺えます。

『私と子瑜との関係は、心を結び合った交わりであって、他人の言葉がそれを邪魔する
 ことなどできはしないのだ』


…私はこの言葉にトドメをさされました!(笑)
この発言については、もう何を言う必要もないでしょう!


そして最後に
『あなたの敦(あつ)い気持ちを知り、献上された上表をそのまま封をして子瑜に示し、
 あなたの気持ちを彼にも知ってもらった』

と締めくくられています。
上表をそのまま見せることによって、陸遜さんが諸葛瑾さんを心配していることを、
諸葛瑾さんにお伝えしたのですね。家臣同士の繋がりもいっそう強くなるようにとの
配慮からでしょうか。「伯言はお前を心配して、こんなふうに上表してくれたんだぞ」
と諸葛瑾さんに伝え、諸葛瑾さんを喜ばせる(?)とともに、上表してくれた陸遜さんの心遣い
を顕彰する…そんな風に考えての行動だったのかなぁと思います。
もしかして孫権さんは、陸遜さんの配慮とそれによる上表が嬉しかったのかもしれませんね。


え〜、長々と書き連ねて参りましたが、取り上げさせて頂いたエピソードから、
孫権さんと諸葛瑾さんの信頼関係の強さ、そして孫権さんの名言の数々を少しでも感じて
頂けたでしょうか?

劉備さんと諸葛亮さんの君臣関係は『水魚の交わり』と呼ばれる強い絆であることが
有名ですが、諸葛瑾さんと孫権さんの君臣関係も、なかなかどうして、大した物です(^^)。

 

 

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