『東西傑物伝 〜三国志 正史が伝える英傑列伝〜第6回孫権』 (NHKラジオ第2 話:伴野朗)

管理人「今回は、ラジオ講座で取り上げられていた孫権さんについてご紹介します」

孫権 「NHKラジオ第二で、NHKカルチャーアワー『東西傑物伝 〜三国志 正史が伝える英傑列伝〜』

     という番組が2002年の一月から三月まで、火曜夜9:30〜10:00に放送されていたんだ。

     タイトルからも分かるように、三国志に登場する英傑達の人物像を、正史に基づいて紹介する

     という内容だったみたいだな」

管理人「そうです。ですから当然、孫権さんについても取り上げられていましたよ。一応、孫権さんも

     三国志の英傑ですから♪」

孫権 「一応って…その言い方は何だか気になるが、まあ、放送の第6回目『孫権 呉王朝の光と影』で

     俺については取り上げられている」

管理人「このラジオ番組でお話をされているのは、作家の伴野朗さんですので、伴野朗さんのファン

     の方も必見…ではなく、必聴な番組かもしれませんね」

孫権 「伴野朗先生といえば、呉を主役とした小説『呉三国志・長江燃ゆ』を書かれた方だろ?」

管理人「そうです!ですから呉ファンの私は、呉の本を書かれた伴野先生のお話が聴けるということも

     嬉しかったです♪」

孫権 「まず冒頭では『呉の初代皇帝で、呉を作り上げたといっていい』人物だと、俺のことを紹介して

     下さっているな」

管理人「それから、孫権さんが孫堅さんの次男であることや、『兄が26で暗殺され、弟も暗殺され

     もう一人の弟も早くに病死して、四人の兄弟で長生きしたのは孫権だけ』だったなど、孫権さん

     の御家族についてのお話が続きます」

孫権 「そうだよな…兄上は若くして亡くなられ、すぐ下の弟の孫翊は暗殺され、その下の弟の孫匡も

     二十歳あまりで亡くなり…。それに俺が子供の頃に父上が亡くなられているから、長生きした

     のは俺だけか…」

管理人「それから、孫権さんは三国志にこういう表現で出てくる、との話で『口が大きく、顎が張って、

     瞳がきらきらと輝いていた。紫がかった髯…紫髯を持ち、瞳も紫がかっていた、ちょっとした

     異相』をしていた…』と、孫権さんの容姿について説明されていました」

孫権 「俺の容姿は、一般的に『碧眼紫髯』と称されているからな」

管理人「伴野先生は、孫権さんのことを『この人ほど、光と影に包まれた一生を送った人は、非常に

     少ないと思う』とおっしゃられていました。『前半生は光に包まれていた。呉王朝を、彼の賢明な

     頭脳と忍耐力でもって築き上げた、凄い人』だと言われていましたね」

孫権 「おお、かなり誉められているな!」

管理人「ただ、後半生については…『後半生は、泥にまみれたというか老残というか、まことに醜い

     老いの姿を残している』と、はっきり言われていましたよ」

孫権 「辛辣なご意見だな。まあ、後半生については、こう言われても仕方が無いが…」

管理人「伴野先生は『これほど対照的な人も非常に珍しい。小説を書いていて(その事を)如実に感じた

     と語られていました。私も同感です。若い頃の孫権さんは名君と言える人なのに、後年は…」

孫権 「それについては、また別の機会にしてくれ。それで伴野先生は、俺の『光と影を中心にお話して

     いきたいと思う』とおっしゃっていたのだな」

管理人「そうですね。孫権さんの光と影…まず光の部分に関しては『子宝にも恵まれて、本当に前半生

     は幸せだったと思う。努力もしたけれども、報われた人』とおっしゃっていました」

孫権 「『努力もしたけれど』と言われているのは嬉しいな。うんうん、俺もちゃんと努力してたんだぞ」

管理人「それから『まず彼は家臣団をよく使った。これが最大の功績だと思う。彼の代わりに、よく

     手足のごとく使った』と、孫権さんの人材活用の才能についてが述べられていましたね」

孫権 「俺の人材活用の手腕を認めて頂けてたのだな!」

管理人「はい♪周瑜さん・魯粛さん・呂蒙さん・陸遜さんの、呉の四大軍師の名をあげて

     『この四人を巧みにリレーして、まあ集団リレーと言ったらおかしいでしょうか…リレーさせて

     呉という社稷を見事に作り上げていった。この才能は、凄いと思います』と誉められていましたし♪」

孫権 「おお、これ程までに俺が誉められているとは…(感激)『凄い』とまで言って頂けるとは…(感涙)

     くうっ、やっと俺も日の目を見たか!」

管理人「お気持ちは分かりますが、ちょっと大げさなのでは?(笑)」

孫権 「それで、俺がどのように四人の軍師を用いていたかについては、どのように説明されていた?」

管理人「ええと…まず四大軍師さんの功績について述べられていました。ここにその全部を書くことは

     できませんが、周瑜さんについては赤壁の戦を勝利に導いたことを、魯粛さんは荊州を巡って

     蜀側と堂々と退治したことを、呂蒙さんは荊州を取り返したことを、陸遜さんは夷陵の戦いで

     勝利したことを、それぞれの功績として説明されていました」

孫権 「なるほど。それぞれの功績を語ることで、この四人がいかに才能のある軍師達だったかを

     説明なされたのだな」

管理人「それで、そのように四大軍師さん達がとても優秀で、才能のある人物だったことを語られた上で

     『このように呉という国は、四人の大物を使いこなして、呉という社稷を発展させていった。

      これは実に、孫権という人の度量がいかに大きかったか、またいかに人間的魅力があったか、

     それを使い切る才幹があったかということを物語るもの以外の何物でもないと思う』と述べられて

     いました」

孫権 「度量が大きく、人間的魅力があって、才幹があると!俺のことをここまで誉めて頂けたのは嬉しい

     な。だが具体例があげられていないのが、残念ではある…」

管理人「そうですね、私もそれについては残念に思いました。四人の軍師さん達の才能と活躍は

     分かるのですが、では『孫権さんがどのように四人の軍師さん達を使いこなしていったのか』とか

     『どのような点から、孫権は度量が大きいと言えるのか』とか『どのような人間的魅力があったか』

     とか『どうして才幹があると言えるのか』とかが、詳しく分からないのですよね…。

     もっと具体的なエピソードを交えて…例えば『呂蒙さんに学問することを勧めた』こととか

     『周泰さんの手柄を賞して、朱然・徐盛を従うようにさせた』とか『虎狩りが好きだった』等の

     孫権さんに関するエピソードを交えて話して頂ければ、孫権さんにどんな才能があったかとか

     どんな魅力があったかとか、人材をいかに使ったのかとかも、分かりやすくて良かったのではと

     思うのですが…」

孫権 「しかし放送時間が30分では、細かいところまで取り上げるのは難しいんじゃないのか?」

管理人「でも四人の功績について説明して『孫権はこの四人をよく使いこなして呉を発展させた。これは

     孫権に才能があったことを物語っている』と結論を出すよりは、孫権さんにまつわるエピソードを

     取り上げ、そこから孫権さんの性格や才能を読み取る方が良いのではと思いました。

     四大軍師さん達についての説明は省略して、その分の時間をエピソード紹介にあてるとか…。

     四大軍師さん達については、第7回と第8回で放送されることが決まっていましたし、そちらで

     知ることができますから」

孫権 「う〜ん…でも、ちゃんと俺については、人材活用が上手かったとか、度量が広くて、人間的魅力

     があったと説明されて、誉められているのだから…。それだけで俺は満足だけどな。

     贅沢を言ってはいけないぞ。それに、伴野先生は『呉は専守防衛に徹したところが良かったと

     思う。それが一つの、孫権の非常に優れた見識ではなかったか』と、さらに言及して下さって

     いるのだからな」

管理人「あっ、そうですね…。『討って出るには、長江が邪魔になる。なるべく長江を盾にとって、

     専守防衛した方が守りやすいということ、これを孫権は完全に実行したと思う』、

     『国内にも山越族という、山ぞく(山賊?山族?)民族がいて、この反乱に散々悩まされる。

      そのために非常に孫権は苦労するわけだが、そういうことではなしに、呉の国を守り

      280年まで、三国の中で一番長命にさせたのは、やはり長江の険というものを、孫権が

      よく知っていたからと思う。それは家訓として代々残っていたと思う』と述べられています

      から」

孫権 「専守防衛の姿勢については賛否両論あるだろうが、伴野先生は評価されているみたいだな」

管理人「この辺までが孫権さんの光の部分ですね。続いて伴野先生は、孫権さんの後半生、つまり

     影の部分について取り上げられています。まず『息子は七人いた。長男の孫登を皇太子に

     したが、彼は241年に33歳で病死した。(この孫登は)非常に心の優しい男だった。

     次男の孫慮も、俊才だったが二十数歳で若死にしてしまった。その時に兄の孫登が涙を流して

     父のもとにずっといることになる。父をなぐさめたいと言って。そして孫登も33歳でこの世を去る』

     と、孫権さんが息子さん二人に先立たれたことを、取り上げられています」

孫権 「そうなんだよな…俺は兄弟や親に先立たれただけでなく、長男・次男にも先立たれているんだ。

     登も慮も良い子だったのに…(泣)」

管理人「それから『二人の息子に早世されるも、三男・四男も優秀だった。三男は孫和、四男は孫覇で

     (この二人は)一つ違い』と続きます。三男、四男も優秀だったなんて、孫権さんの息子さん達は

     凄いですね〜」

孫権 「ははは、凄いだろ!やはり、俺の教育が良いからかな(笑)」

管理人「う〜ん、どうなんでしょうか(^^;)でも『242年、孫和を皇太子に立てるが、半年遅れで孫覇を

     魯王とした。そして、太子と魯王を同じところに住まわせた。この時、孫権はもう60歳になって

     いるから、当時としては老境に入っており、二人を同じ待遇にする。途中で分けるものの

     両方に取り巻きが現れてしまった』とも言われていますよ。折角二人とも優秀な息子さんなのに

     孫権さん自らが二人を同じ待遇にしたりして、後継者争いの火種を作って、両者の勢力を

     争わせることになってしまったのですね…」

孫権 「ううっ…。そのことを言われると、返す言葉が無いな…」

管理人「おまけに『結局、八年間この状態を据え置いて、250年に太子・孫和を廃し、孫覇には自殺を

     命じる。そして末子の孫亮を後に立てた』ということですから…。伴野先生も『喧嘩両成敗と

     いう形で上手くやったつもりなのだが、三男と四男をともに廃するということは、自分の手足を

     切り落とすことになった。非常に大きな損害を呉という社稷に与えたことになる。これは、

     どちらかが継いでいれば、また歴史は大きく変わっていたと思うが、それが出来なかった。

     孫権の自らの暗愚さで、老いの一徹で、老いの愚かさが呉の大きな滅亡の原因を作っていった

     と思う』と語られていますよ」

孫権 「う〜ん、これまた辛辣なお言葉だな…」

管理人「本当に…でも、辛辣ですけれども、全くその通りだと思いましたよ。折角の優秀な息子さん

     達を後継者争いで失うことになって、しかも後継者争いに巻きこまれた…例えば陸遜さんの

     ような優秀で素晴らしい人物を死に追いやったりとかの悲劇も起こりましたから…。

     孫権さん、十分反省して下さいね」

孫権 「あっ、ああ…。あっ、そうそう、今回伴野先生のお言葉を取り上げるにあたって、

     伴野先生が『〜なのです』とか『〜であります』などと言われたところは『〜だ』とか『〜である』と

     いう風に書き換えさせて頂いた。本当は伴野先生は、とても丁寧な話され方をしていたから

     その辺のことは、誤解しないように気をつけてくれ」

管理人「それでは今回はこの辺で…。次回をお楽しみに!」

    

 

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