『魂の行方』
ぼんやりとした視界。
かすみがかった感じの中、孫権は一人立っていた。
ふわふわとした感覚。
……ゆめ、か?
そう思った時、かすんだ世界から不意に、近づいてくる影があった。
……え…?
目を凝らし、近づいてくる影を判別しようとした。
孫権の目に映ったのは、懐かしい顔だった。
「……兄上……?」
その声に、影はにっと笑った。
孫権にとって、たった一人の兄・孫策。
江東を制し、小覇王とまで言われた、その人だった。
「…兄上……」
あぁ、やはり夢なのだ。
孫権はそう、思った。
夢でもなくば、会えるはずがないから。
この兄は、二年前……。
二年前の、春。
「…あにうえ…あにうえ…っ」
つい先程までは、苦しそうな顔をしていた兄が。
今は穏やかに瞳を閉じている。
自分の手に重ねられた兄の手。
つい先程までは、温かで、優しかった手が。
今は徐々に熱を失っていく。冷たく硬くなっていく。
「…あにうえ……」
目の前に横たわる兄は、もっとも兄らしくない、兄。
いつもならば、温かく、笑顔の兄なのに…。
魂を失った身体は、血の流れを止め、不気味なほどに白くなって。
――兄上は死んだんだ――
「兄上…」
孫策は声を出さず、孫権を見ている。
「兄上は、どこに行っちゃったんだ…?」
――魂よ歸り來れ…――
楚辞の招魂の巫女・巫陽は、身体を抜け出した魂に、そう呼びかけるのだという。
今では、葬儀の儀式の習慣のようになっている。
そして。
孫策の無二の友であり、義兄弟であり、臣下であった周瑜。
彼が、孫策危篤の知らせを受けた時に、巫陽、と。
招魂の巫女の名を、呼んだのだ、と聞いた。
「死んじゃって、その魂は……どこに…?」
周瑜の声が、巫陽に届かなかったのか。
巫陽の唱えた招魂の呪が、間に合わなかったのか。
魂の戻るべき魄が、酷い傷で、戻ろうにも戻れなかったのか。
では、魂は何処へ…?
孫策は、ふっと笑みを深め、右手の指で自分の胸の辺りを指した。
孫策がしたように、孫権は己の手を己の胸の上に持っていった。
「……こころ?」
その言葉に、孫策は満足そうに孫権を見つめた。
そう、確かに。
未だに、亡き兄を思う。
それは自分だけじゃない。みんなも、そう。
きっと、そう…。
でも。
「…痛いなぁ、兄上……」
心の中には確かに、孫策の存在があっても。
もうこの世に、兄上の姿はない。
思い出すたびに、懐かしさと、温かさと、痛み……。
頭で考えるのに、気持ちでいっぱいになって、痛くなるのはこの手の下。
心臓の、この辺り。
「…痛くて、どうしようもない」
孫策は悲しそうな、それでも励ますような、複雑な笑顔を浮かべた。
ふと目を開ける。
かすみがかった世界も、今は亡き兄の姿もない。
見慣れた天井、見慣れた寝台、見慣れた室。
「…そうだよな、夢だよな……」
夢の中の孫策は、笑うだけで何も言ってはくれなかった。
あの笑顔は、何を伝えようとしていたのか。
考えれば考えるほど、目が冴えてくる。
まだ夜明けまでは少し時間があったが、起きることにした。
袍を羽織って外に出る。
まだ薄暗く、どこかで鳥の声が聞こえる。
初夏の明け方は、涼しくて穏やかだ。
孫策が死んでも、時は止まらず季節は巡り、江東の地は変わらず朝を迎える。
誰がいなくなっても、この世界が続く限り、日常が続く。
きっと、自分がいなくなっても。
いつか死んで…もっとずっと時が経てば、自分がこの地で生きていた事さえ、忘れられて……。
それでも。
この江東が、大好きだから。
生きている間はきっと、必死で守ろうとするだろう。
いつか完全に忘れられる事を知っていても。
…兄上も、同じだったのかな…。
うっすらと、徐々に空が明るくなっていく。
江東に、ゆっくりと光が差し込む。
この瞬間が、一番好きなんだ。
何もかもが、眩しい光に包まれて、起きてくる人、動物、草木……。
…兄上、見てる……?
兄上が作り上げた江東の、俺がこれから守っていく江東の、目覚めの時だよ…。
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